「詩をきっかけとして考える会」1月例会案内

片男波海岸より海南市方面をのぞむ
片男波海岸より海南市方面をのぞむ

 明けましておめでとうございます。2013年第1回目の例会は下記日時と決まりましたので、お知らせします。

場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
日時: 11月16日(水)午後1時30分より

「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
              

 さて、本例会テーマをご案内する前に昨12月を一つの区切りとして、私の中で一応の結論に到達することが出来た、検討テーマ「国家」についての纏めを試みてみよう。(長たらしい記述となりそうな場合は、別文書とすることにする)。

 先ず、このテーマに関し、参加して会場で意見や見解をお聞かせ下さった皆さま(特にK、N、Sa、Hm、故Y、Hr、Si、Mt、Tm、Tu-順不同、敬称略)、更に会場参加ではなく、メールで考える方向性を示唆して下さったMd氏のお陰で自分なりに大変得るところがあり、これに対し謝意を表すると共に会の存在意義も改めて確認出来たことを嬉しく感じて居ります。

 

 ところで、私なりの纏めは次の通りである。「国家」とは誤解を恐れずに言うなら「医療」に似て(と言ってもこの言い方も誤解を招く恐れが十分あるが、)或る種の”必要悪”である、と考える。ここで、大方の人々は「悪」の方に目が行き、「とんでもない」「何を世迷い言を!」ということになるであろう。

 

 しかし、私は「医療」は基本的に患者の苦痛や苦悩を軽減して、患者自身の自然治癒力を発揮させれば足り、また、それだけに留めるべきだ、という原理原則を守るのが本来の使命である、と考えている。つまり、過剰医療や延命治療は医療の本質を逸脱している、と考える立場にある。従って、ips細胞を利用して臓器再生治療を図る、という方針にも全面的に賛成は出来ない。科学のために研究を深めることに反対はしないが、その成果をヒトに直ちに適用するか、否か?とはまた、全く別問題である。


 たとえ、人類といえども地球上の生き物の一種に過ぎない。ヒトだけが特別な生命体では無い筈である。全ての生き物は与えられた地球環境の中で、種族維持のために産み落とされ、成長し、繁殖し、自然に死を迎える。極端な言い方をすれば、この範囲を逸脱するあらゆる行為は無神経に採用すべきではなく、この範囲を超えることは「悪である」という主張があってもよい、と考える。
 単なる空想や絵空事であることを承知の上で言うなら「医療」や「医療行為」の存在しない世界こそ理想的であることに反対する人は居ないだろう。

 同じ論法に従って、私は「国家も必要悪の一種だ」と考える。「国家」が存在しなくても、世界中に戦争も、人々の争いも、貧困も、格差もあらゆる差別も存在しなければ、それは理想的な人類社会ではないか。そうなれば、国益も国策も国家の威信も、そんなものは塵のように雲散霧消する筈だ。

 

 しかしながら、また残念ながら、少なくとも現代は、そんな理想的状態とは程遠い。
 また現実に、ヒトという動物の習性に由来して多数の人間が集まって暮らす以上、そこには何らかのルールというか、規範が必要であろう、そしてそれを管理するために組織という機構を要し、それを円滑に機能させる努力もまた求められるであろう。それで(少なくとも現状では)好むと好まざるに拘わらず「国家」という組織の存在を認めざるを得ないことになる。

 

 一方で、国家の運営を誤ると、とんでもない悲劇をもたらすことは過去の歴史の体験から日本人には特に十分に認識できる筈である。
 従って、私の取るべき立場は、「国家」の存在は或る種の必要悪であるものの、その存在自体を現時点で否定することは出来ない。

 纏めれば、今は「国家」の存在の是非を問う時ではなく、「国家」というものの在り方をこそ問題にすべきである、ということになる。目先の利益に眩んで、狭量で、未来を見通す能力に欠ける代表者(リーダー)に舵取りを任せることは非常に危険である。

 

 「国家」には人々が最大の「枷」を掛け、最小の「恣意」しか許容しないことが肝要であろう。この基本方針に従い、そこから逸脱する、あらゆる行為に対し忌憚なく批判的意見を発信して行こう、というのが私の取るべき生き方と活動になる。


 (注)上掲の文章中、表現”必要悪”にどうしても抵抗を感ずる方は、該当単語を”無いに越したことはないもの”と読み替えて頂いても、一向に差し支えない。

 さて、新年からは或る意味で「国家」の対極に位置すると考えられる「個人=人間」を検討課題として取り上げて行こう、と考えている。関心のある方は積極的にご意見をお聞かせ願いたい。

 

 尚、このテーマは一年くらい掛けてやればよいと考えて居り、これとは別に今直ぐやってみたい事案が出て来た。それは1月4日に放映されたNHK BSTV番組 "World Wave Tonight"新春特集中で紹介されていた『今、世界に最も影響を及ぼしている人物のトップで紹介された「ネット署名」で社会に変革をもたらそうとするソーシャルメディアCEOベン・ラトレイ氏。』のことで、ソーシャルメディアでは、現在よく知られたTwitterとFacebookを私自身も利用しているものの、率直に言うと、これらには、どうしても100%納得し、満足することの出来ない物足りなさと違和感を感じていたが、紹介されていた新しいソーシャルメディアは"Change.org"と呼ばれ、既に日本にも上陸して居て「福島県: 県外避難の選択肢を奪わないでください!」という厚生労働大臣に対する、その要求を伝えるべく、賛同を求める署名活動キャンペーンが張られている。

 

 現時点では「102,727人の賛同者が集まりました」という結果になっているが、「目標まで残り47,273人の賛同者が必要です!」と訴えている( http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C-%E7%9C%8C%E5%A4%96%E9%81%BF%E9%9B%A3%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E%E8%82%A2%E3%82%92%E5%A5%AA%E3%82%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84 )。早速、私も署名させて貰った。この活動は世界各地でも成果を上げつつあるようだ。(私の記憶によるものだが、例を挙げれば、米国南部の或る州で13歳の黒人の少年が射殺されたが、射殺し

た者が不起訴となったらしい。これに対し、少年の家族は再三司法当局に抗議したが、相手にされなかった、という。そこで、この"Change.org"で抗議の署名活動キャンペーンを行ったところ、予想を上回る賛同者の署名を得た結果、司法当局もこれを無視することが出来ず、ついに起訴に踏み切り、裁判が開始された、という。
 
 このような活動と成果こそ、ソーシャルメディアの存在価値だ、とかねがね考えて来たので、早速、最近自分で立ち上げたウェブサイト「わかやまイベントPLAZA」(

http://www.my.zaq.jp/joh/を団体として登録し、参加した。

 ところが、私には以前から疑問に思い、糺すべきではないか?と考え続けて来たことがある。

 


 それは、先日日本国内でTwitterでtweetしている世代についての記事があったが、一番多数を占めているのが40代だ、という。市民の意見を行政や国の方針について反映させて行く為に、ソーシャルメディアは有効である、と私は常々考えている。しかしながら、発言が40代を中心とする、いわゆる若年層世代に偏っているとすれば、それは大いに問題では無かろうか。

  


 国家や行政に対しその矛盾や不備を訴え、改良、改善させて行くには、幅広い庶民の偏らない意見を反映させて行かねば余り意味が無い。となれば、インターネットを利用するソーシャルメディアからの意見の発信も幅広い年代層に亘る声なき声の集大成で無ければならない筈であるが、それが一部の年齢層に偏っているようでは問題であろう。

 

 この現象は具体的に「どういう理由から」派生するのか、はっきり分からないが、その理由を探り、その対処方法を見つけ、改善を図って行くことが先ず必須だ、と考える

 


 一般的に、高齢者と呼ばれる年齢層の人々が十分にPCやインターネットを駆使している、という話は余り聞いたことが無い。何故であろうか?私はかねがねPCやインターネットこそ高齢者を含めた専ら身体的ハンディキャップを有する人々にとって、それを克服して活動するために最も有効な手段乃至機器である、と半ば確信してきた。それは著名な宇宙科学者であり、車椅子上から人工発声器を介して宇宙科学を論ずることでよく知られたホーキンス博士の姿ばかりでなく、筋萎縮症を発症しながらも目の動きやストローから発出する呼気の強弱によってPCに入力を行い、発声器やディスプレーを通して自己の意思疎通を図るというハンディキャップを負った人々の姿によって、如実に示されている。

 

 私は、身体的に自由度の制限される高齢者こそPCやインターネットの仕組みを活用して、その恩恵を第一に享受する資格を有する筈である、と考えている。その流れが十分に機能しさえすれば、ソーシャルメディアにおける高齢者層の発言も自然に増え、当然より良くバランスの取れた庶民の発言が為されるようになるであろう。そうで無ければ、ソーシャルメディアによる社会改革の明日が明るい、とは言い難い。

 

 世界でも代表的な高齢者大国である日本の動向は後続の国々からも大いに注目されている。その日本で、高齢者が若年層と共に意見を交換し合い、知恵を出し助け合って問題を解決してこそ高齢者大国日本の未来もある、と言えるだろう。その為には、高齢者がPCやインターネットを無理なく駆使し得るようにすることが、今流行の言葉を借りれば、「喫緊の課題」と言えよう。そこで、私は現在、これらの機器や仕組みを利用していない、主として高齢者(あるいは比較的年輩の主婦)たちに質問したい。「あなたはPC、スマホやインターネットをやっていますか?」「やっていないとすれば、何故やらないのですか?」「実際に手を下すに際し、困難があるとか、実施に対する何らかの障害があるのですか?」あるいは「やりたくない」という「積極的な不採用理由が特にあるのですか?」等々。

 

 その辺りの事情を把握すれば、それぞれの事態に対する解決方法は必ずある筈であり、具体的にはその障害の排除さえ実現すればよいわけで、それが個人的に解決できない様な原因や理由にあるのなら、それを社会に訴えて改良し、実現させて行けばよい、ということになる。

 私はこの観点から、随時、また1月例会においても、もう一つのテーマとして取り上げ、この問題に関するデータの収集を開始したい、と考えている。今まで本会に参加したことの無い方々もPCやインターネットについて、どんなことでもよいから、知りたい、聞いてみたいという人々は是非話に加わって頂きたい。また、この案内を読まれた方ご自身で無くとも、ご家族などその周りに居られる方で何らかの関心を有する方々は勿論、「そういうものの存在や普及には反対である」という方々のご意見も聞かせて頂くことは、この問題を解決し、実現して行く上で非常に有用であろう、と思う。是非ご協力の程をお願いしたい。(文責:城 久道)