「詩をきっかけとして考える会」6月例会案内

明日香の仏
明日香の仏

 既に1ヶ月くらい前に、ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に開催日時と場所を予告済みであるが、直前に迫った6月例会を再度案内する。

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 6月20日(木)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
              

 例会では、以下に述べる内容を中心に話し合いたい。詳細は以下の通り。

 今朝(6月17日)の朝日天声人語中に、近い内私が東京へ出た際の鑑賞ターゲットにしていた東京都写真美術館で開催されている「世界報道写真展」に触れた記事が掲載されていた。
 イスラエル軍の空爆により死亡した2歳と4歳の誕生日間近の幼い二人の兄弟の写真やパレスチナ自治区ガザで撮影された兄弟の亡骸をモスクへ運ぶ男達の写真などに触れた後に、次のような文章が続く。▼戦争の最大の犠牲者は?と問われれば、それは子どもではないだろうか。国家や大義の呪縛から一番遠くにいながら、大人どうしの憎悪に未来を奪われる。戦火は柔らかい心にも容赦ない傷跡を残す▼とある。この文章はその前段の「シリアはいま泥沼だ。国連によれば死者は9万人を超えた。少なくとも1729人が10歳以下の子どもという。」に続くものだから、筆者も大方の読者も現在の中東の嵐を頭に置いているのだろうが、私は70年前の自分を思い出すのである。

 私が10歳だった頃、我が祖国は泥沼の戦いに疲弊し尽くし、庶民は呻吟しながら、ひたすら虚しいスローガンの下で耐えるしかなかった。
 私は幸い、こうして生き延びたわけだが、東京から縁故疎開した紀南の海岸で、突然、飛来した米軍艦載機(多分、グラマンだった)に機銃掃射された。もともと紀南地方は殆ど水稲を産出せず、いつも米不足に悩まされ、大麦とサツマイモの多く入った茶がゆが主食だったが、更に常に副食(いわゆるおかず)が乏しく、豊かな海が傍にあっても、制空権も制海権も失った危険性と、漁師たるべき元気な男達は兵士や勤労戦士として国に調達されて見当たらず、流通機構も、上手く機能していないので、結局慣れない都会人であろうが、自給自足の道しか無かったのである。その日、東京に残っていた歯科大教授の父が久し振りに疎開した家族の様子を見に来てくれたというわけだ。都会の住人とは言っても、父だけは地元育ちで子供の頃には慣れ親しんだ海だから、長男で小学5年生の私を引き連れて夜のおかずの小魚取りに磯に出たところ、非戦闘員であることが明らかな私と父を米軍機は、搭乗員の顔さえ見えるほどの至近距離から機銃掃射の雨を降らせて来たのである。もう少し具体的に説明すると、その場所は、すさみ町の江須崎である。今は童謡公園があり、エビとカニの水族館で識られる、あの小島の海縁である。
 父と私は天然記念物として指定されている亜熱帯植物群の中に逃げ込み、難を避けることが出来たが、私はあの日の出来事を忘れ無い。

 6月15日に、私も参加している「子どもたちの未来と被ばくを考える会」は丸一年以上過して、その総会と「放射性がれきの問題点」についての報告と医師山崎知行氏の「福島の子どもたちの・今」という講演会があり、その後、引き続いて質疑応答や討議などが続いた。ここで出た、それぞれ立場の異なる人々の意見を聴いていて、或る意味で非常に興味深かったし、それらに関する私の判然とした見解も存在するので、それを何とか分かり易く、また要領よく纏めてみたい、と考えているが、ここではその中で述べられた一つのことだけ触れて置こう。それは会場に福島県から避難されて来て居られる方も見えていて、いわゆる「疎開」の話題が出た。広辞苑には「疎開」とは、その三番目の意味として(3)空襲・火災などの被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散すること。「学童―」「強制―」とある。この説明からしても、現代の、福島の児童たちの「疎開」は我々の時代の学童の「集団疎開」とは、些かニュアンスが異なるように感じる。我々が体験した「疎開」は、チェルノブイリがソ連領であったときのような国権による強制的な疎開に分類される。たとえば、軍の速やかな移動の障害になりそうな建造物は、いやも応も無く、権力により強制疎開、つまり破壊されてしまうのである。

 学童たちの集団疎開にしても、田舎に縁故の無い都会の小学生(国民学校生徒)たちは、一、二年生(七、八歳)を除き、一斉に親元から離されて、見知らぬ土地の寺や空いた宿やなどに分散して、送られたのである。
 私は父の故郷、和歌山県江住村(現すさみ町)に縁故疎開するまで、生まれ住んでいた東京の町から山形県の白岩町という全く知らない土地に同級生と共に送られたのである。出発の日、上野駅には子どもたちを手放し、送り出す不安を胸に抱えて、大勢の父母たちが詰めかけていた。その中に私は母の姿を認めた。そして窓から、ホームの端まで走りながら、いつまでも手を振っていた母の姿を思い出すのである。敗戦後、今まで辛うじて日本は戦争に巻き込まれず、切り抜けてきたので、私もこの歳まで生き延び、百二歳まで長生きしている母の面倒をそれなりに看ることになっているが、集団疎開が生死の分かれ目となり、二度と生きて会うことの叶わなかった親子も決して少なく無かったのである。

 「天声人語」記者の「柔らかい心」の表現中に”日本人の子ども”という意識があったか、どうか?知らない。しかし、私こそ”その日本人の子ども”なのだ。心の傷跡は深い。非戦闘員として殺されかけ、食べる物にも不自由しながら(親元から離されたため、その頃、薬局で未だ手に入った「わかもと」を買っておやつ代わりに食べていた子も少なく無かった)親から無理やり離された結果、衛生状態も悪くなり皮膚病に感染し、蚤やシラミを湧かせていなかった子どもたちは無かったはずだ。

 そして敗戦後、突然、教育方針を百八十度転換させ(変節し)て、恬として恥じない先生方や国家の指導者たちの、いわゆる大人達の豹変の態度を見せつけられて、私(当時の子ども)たちは、「力を持って偉そうにする人たちの言うことは絶対に信用出来ないのだ」と身に沁みて体得し、その考えはこの歳になっても全く変わることは無い。

 戦闘、非戦闘員である自国民350万人もの人を殺した上、その何倍もの周辺国の戦闘、非戦闘員をも殺害させた、我が国のリーダー達を、戦勝国による裁判によって「戦争犯罪人」とされたのだ、と決め付けた上、政教分離の原則を無視した靖国神社に祀り、それを参拝するのは当然だ、とは、戦争など知りもしない、その浅慮な愚か者たちの脳みその中は一体どうなっている?

 慎ましくも平和に暮らしていた350万人以上もの命を失い、その家族達の築いた家庭をも破壊した、無能で、道を誤ったリーダー達が、どうして戦争犯罪人では無いのか?

これらの犯罪人達は戦勝国の裁判如何に関わらず、自国民が戦争犯罪人として糾弾すべきなのではあるまいか。そんなことすらまともに対応できず、うやむやのまま葬り去ろうという体質が歴史認識の不適切さとして外国からも指摘されるお粗末さに留まるだけで無く、あれだけの原発大惨事を引き起こしながら、事実は出来るだけ隠蔽し、責任は出来るだけ逃れることに専念し、賠償費用は国民からの税金を投入しようとする、誰一人として責任を負おうともしない東京電力や国の態度からして、そこには何の進歩も変化もみられない。その上、私が最大の問題と考えるのは、そういった事態を平然と(無知や無関心の故かも知らぬが)許容してしまう一般大衆の有り様だ。

 同日の朝日新聞朝刊第一面の見出しに「原発宣伝事故後も24億円」とある。これについても、もっと書きたいが、私の結語は一言「虚しい」に尽きる。そして私の予想がより現実性を帯びてきた証拠である、とも考えている。それは、「人類は今の暮らしを変えない限り、間違いなく破滅に向かって突き進んでいる」ということである。(文責:城 久道)