「詩をきっかけとして考える会」9月例会案内

東京駅丸の内口上空に懸かる満月
東京駅丸の内口上空に懸かる満月

 

 

 

 

 

 

 

 既にミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に開催日時と場所を予告済みであるが、次回9月例会を再度案内する。

 

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席

    日時: 9月25日(水)午後1時30分より

 

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

              

 提案するディスカッションのテーマは下記の通りである。

 

 「人間の尊厳を破壊する一切の殺人行為(たとえば、あらゆる戦争や、たとえ法の名の下に執行される刑罰、また法により担保される医学的処理事案により齎される殺人であっても)断固反対する」というのが、あの愚かで、人の命を虫けらのように軽んじ来た戦争を潜り抜け、80年間生きて来て、ようやく辿り着いた私の結論である。

 

 ”あらゆる戦争”と表現した途端に、それでは「自衛のための戦争はどうなるのか?」と性急かつ安易に反応して来るであろう人々に、先ず申し上げて置きたい。

 

「自衛のため」という旗を振りかざす以上、貴方はその前提となる戦争の存在をイメージしているのであろうが、先ず、その危険かつ不注意な態度を排除し得る能力を体得することが先決問題である。

 

 徒に煽り立て、戦争遂行を実現しようと企む組織や、軍需産業を含む利益集団や、金力におもねるマスコミに操られて、それこそ存在しないかも知れない「侵略」を殊更に仮定して、論を進めようとする軽率な行為に先ず問題があると言えるが、それに先だって冷静に歴史の事実を振り返り、同じような過ちを起こさないように努める態度こそ肝要であろう。

 

 過ぐる9月18日の82年前、満州事変の発端となった柳条湖事件について、戦時中、私は張学良軍の陰謀による満鉄襲撃事件と教えられ、関東軍出兵は自国民の保護や既得権益保全のための止むを得ぬ武力行使と信じ込まされてきたが、実は「自衛戦争」を演出するための自作自演の陰謀であり、引き続く15年戦争の泥沼に嵌まり込んだ挙句、戦闘員、非戦闘員を併せ250万人とも言われる日本人死者を出し、更に、戦争に巻き込んだ周辺国では、その数倍にもおよぶ人命を失わせる結果となった、とも言われている、この歴史的事実を冷静に判断し、受け止めねばならない。

 

 「自衛戦争」と称される武力行使の実態を見抜くことこそ、冷静で、賢明な人々に求められる第一の要件であると同時に、それが「侵略」であるか否かに拘わらず、「自衛戦争」という概念自体が、その前提として何らかの「戦争」の存在を是認した上で生じて来る考え方であると言えよう。

 

 どなたもご存知の筈の日本国憲法第九条第二項には「…、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と高々と謳い上げられており、これこそ世界中に誇れる、国際的にも最先端を行く比類無く潔い、覚悟に満ちた宣言であり、もし人類が今後の発展と安寧を望むならば、これ以外に選択の余地は無い、と信ずる。

 

 姑息な「自衛権」や「自衛戦争」を、こそこそ論じたり、それについて小細工を弄するのでは無く、その比類無く優れた理念を実現させるべく、自ら世界の先頭に立って行動することによって一切の戦争を排除するためにあらゆる努力を傾注することこそ、偉大な憲法を護持する日本国民の使命と誇りである筈である。

 さて、来る12月8日(日)には、午後2回に亘り和歌山市内「あいあいセンター」において、幸徳秋水や新宮市出身のドクトル大石誠之介等が、当局のでっち上げにより処刑されたとされる、いわゆる大逆事件を描いたドキュメンタリー映画”「100年の谺(こだま)」大逆事件は生きている”を上映する会が企図され、私と、本会の世話人である土 みゆ子も呼びかけ人として名を連ねている。

 

 この映画の上映目的は、アメポチ(アメリカの忠犬ポチ)安倍政権の集団的自衛権発動、その戦争遂行に際して、米国から求められている軍事機密保持を実現しようとする「特定秘密保護法案」が、戦時中の悪名高き治安維持法にも繋がって行くという差し迫った危機感に由来しており、その意味では自賛ながらタイムリーな企画と言えよう。是非、皆さんやお知り合いの方々の、一人でも多くの参加をお願いしたい。

 

 このような悪法による、明かな冤罪事件による誤った死刑執行による殺人は言う迄も無いが、仮に他の理由による殺人犯の死刑であっても、私の死刑反対の意見は変わらない。

 

 先ず、一口に「法」といっても、人の命に関わる場合は、いわゆる神の領域を超えて、不完全な人間の定めたものであり、その上「法」は時の権力者の恣意によって都合よく裁量可能な範囲である以上、「人」という同等な価値を有する他者の命を絶つ権利は、たとえ「法」の名の下であっても、そもそも最初から何人(なんびと)にも許容されていない筈である。

 

 フランスのドレフュス事件では、ドレフュス大尉は冤罪によるスパイ事件で終身城塞禁錮の判決を受け、南米の仏領ギアナ沖のディアブル島(デヴィルズ島)に拘束されていたが、作家エミール・ゾラが先頭に立って、これに抗議した結果、世論は沸騰し、更に幾つかの曲折を経た上、時の首相の特赦によりドレフュス大尉は釈放されたが、その後も無罪を主張し続け、1906年、ようやく無罪判決を勝ち取って名誉を回復することとなった。

 

 それに引き比べ、拙速に、あるいは意図的に命を絶たれた幸徳秋水を初めとする我が国の冤罪被害者達は、自ら無罪を主張する機会さえ理不尽な国家権力にむしり取られ、その意志を引き継いだ遺族達が1961年に東京高裁に請求した再審も4年後に棄却され、1967年には最高裁への特別抗告も棄却されて、今現在に至るまで法的な無罪判決も名誉回復も果たせぬままである。

 

 端的に言って、一つしか無い人の命を絶ってしまった後では、すなわち「法」という一見正義のように見える規定の下で、法の執行に携わる人々の、時にその愚かな人智が犯す、あるいはまた、時の権力者に迎合するため、自らの保身を願う見え透いた偽りや誤謬に基づく、実際には「殺人行為」となる判決を彼らが一旦下し、死刑を執行してしまえば、たとえ、後にその誤りを改め、回復させようとしても、かけがえのない人の命を元に戻す術は、言うまでも無く存在しない。

 

 更に、これに関連して、いわゆる「殺人」を犯した殺人犯の事例であっても、事件や犯人の状況や、生い立ちを精査し、処断に際し、熟慮することが肝要である。

 具体的な事例として、たとえば、いわゆる「永山則夫連続殺人事件」と呼ばれるケースなどについても充分に考察して、考えを深める必要があるが、長くなるので今回はこの辺りに留めることにする。(文責:城 久道)