いつでも歴史は繰り返される

紀三井寺
紀三井寺

 八十年も日本という国に付き合っていると、国という代物のやることはちっとも変りばえしないことがよく分かる。未来の明るい生活をもたらすはずの原子力エネルギーが庶民を犠牲にするだけで、一部の金の亡者とそれに群がる下劣な政治家共の資金源の役割しか果たしていないことは自明である。

 

 廃炉作業を完了させるだけでも五、六十年以上は要する訳だから、事故の犠牲になったり、生活を破壊されたり、その不条理を抗議し続ける人達も、どうせそのくらいの間に大半は死んだり、衰えてしまったりして、いつしか、そんな深刻な事態を知らない人々だけになる。だから、兎に角その間だけ、出来るだけ真実を隠し、嘘をつき通せば足りる、という結論が既に出ていて、政治家や東電はそれに従って行動しているに過ぎない。「除染」だって、その効果の如何?よりも、やっているというジェスチャーに意味がある訳だし、人体を危険に曝しながらも雇用だって創出できているじゃないか、というのが奴らの言い分。

 

 今まで日本という国がやって来た歴史的事実に倣(なら)ってやっていれば、「問題はうやむやの侭、いつしか消滅させることが出来る」と判断した上、再稼働もやるし、危険な原発を他国に売り付け、そのノウハウまで輸出しようということになる(壊滅的な被害の犠牲を庶民に強いた、先の敗戦時と同様のパターンだ)。

 

 有為な若者たちを騙して特攻自殺攻撃を奨励したり、王道楽土を建設するというスローガンの下、他国の農地を奪い取り、うまい汁を吸った企業家や軍部、政治家共が蔓延(はびこ)った反面、残留孤児を生み出したり、戦闘員、非戦闘員を合わせ二百五十万から三百万人もの人々を殺すのが国家であり、そんな国の旧皇族出の総理が、為政者の誤った判断の結果、戦争に負けた途端に「一億総懺悔だ!」と曰(のた)もうたのだから、原発事故によって福島、またその周辺で深刻な健康、生活上の不便や、負担を背負ってしまった方々には心から同情し、誠にお気の毒だ、とは思うものの、実は日本という国が、庶民の迷惑や犠牲など何も考慮せずにやって来た歴史的な現実からすれば、これは今回の原発事故だけが突出した悲劇や被害例ということでもないのだ。

 尤も日本のみならず「国家」というものは大体どこの国でも似たりよったりだが...。

 

 そもそも「国」とはなんぞや?何のために存在するのか?という話になって来る。国は本来そこに居住する庶民の求める形を構成せねばならぬ。しかし、今世界中に存在する国で、その要件を満たす国が果たして実際にどれだけ存在するのか?と言えば、甚だ心許ない。

 

 どんな犠牲を払ったとしても国家の方が大事か、それよりヒトも含めた地球上の生き物全ての生命や、その環境を守り続けることの方が大切なのか?という問題になり、そこで判断は真っ二つに分かれる。

 

 我々庶民は、金や国家の面子などに拘るような考え方を完璧に排し、生きとし生けるものが共存し続けることの出来る世界を構築せねばならない。その為に、いわゆる「国」が、果たして本当に必要なのか、否かも真剣に考えて行かねばならないし、それと共に庶民全体が、その的確な立脚点に拠(よ)って真に庶民の求める国を誕生させない限り、単に誤った歴史を延々と繰り返すことになるだけで、今回の福島原発事故被害の真の克服など到底あり得ない。